人物・時代




    周瑜と周辺の人物・時代の紹介です


       周辺の人物   系 図   時 代



      周 瑜(しゅうゆ)


      字   公瑾(こうきん)


    175年  楊州盧江郡舒県に周家の二男として生まれる
    184年  孫家の長男 孫策と出会う
    195年  孫軍に迎えられる
    198年  建威中郎将に任じられ、兵2000・騎馬50頭を与えられる
          牛渚の守備を任せられ、丹陽郡春穀県長の職務にも当たる
    199年  中護軍・江夏太守となり、皖県を陥とす
          軍を江夏に進め、豫章・盧陵を平定し巴丘に軍を駐める
          小橋を妻に迎える
    206年  孫瑜軍の目付け役として麻屯・保屯討伐に参加
          宮亭の守備に当たる
    208年  江夏討伐時に前部大都督・赤壁の戦い時に左都督となる
    209年  偏将軍・南郡太守となる(奉邑として下雋・漢昌・劉陽・州陵を得る)
          流れ矢が鎖骨に当たり負傷
    210年  蜀攻略の途上、巴丘において死去



     周郎(周家の若様)とも呼ばれ、眉目秀麗で積極果敢な武将。主に孫軍の郡市として活躍した。
     武芸だけでなく、芸術にも優れており、音楽の才能があり、酔っていても演奏の間違いを聞き分けて、演奏者を振り返った     と言われている。
     そのため「曲に誤りがあれば、周郎が振り返るぞ」という言葉が流行ったほど。


     孫策とは彼の父 孫堅が董卓討伐の義兵を挙げた際に舒に居を移した時に、屋敷の一部を譲るなどした幼馴染であり、孫策     が袁術の元を去り、独立した際に彼の軍へ入った。
     また、二橋姉妹の姉 大橋を孫策が、妹 小橋を周瑜がそれぞれ娶った義兄弟でもあった。


     周瑜が生まれた周家は三公輩出の名門 周家の分家。従祖父の周景と息子の周忠は三公の一つ大尉に任ぜられた。
     周瑜の父 周異も洛陽県の令だった。


     子供は小橋との間に二男一女。長男 周循は孫権の娘(公主)魯班(後の全公主)を娶り、騎都尉にまで進んだものの、夭     折。周瑜に似て優秀だったとの記録がある。
     二男 周胤は皇室の娘を娶り、興業都尉まで進み、都郷侯に封じられたが、後に罪を犯して盧陵郡に配流された。
     長女は孫権の太子 孫登の妃となったが、孫登は夭折した。孫登の息子 孫はん(王偏に番・表示できず)・孫希は彼女と     の間に生まれた子供かは不明。



        ☆ 雑 文 ☆
     眉目秀麗、とまで言われた周瑜。その凛々しいお姿にノックアウトされてしまいました(笑)決定的に転んだのは     朝香祥先生の「かぜ江」シリーズでです。その前までは周瑜の存在は知っていたのですが、これほどまでとは思いもよらず。
     涼しい顔して、なおかつ強い。その上、音楽の才能まであるなんて、天が一物どころか三物も与えたもうたお方でしょう。
     孫策との仲良しコンビがいいですね。2人のやり取りを生で見てみたいです。きっと孫策ボケの周瑜ツッコミなんだろうな     ぁ〜(笑)
     周瑜がもっと長生きしていれば、歴史は変わっていたかもしれません。歴史に「if」はないけれど、そう思わずにはいら     れません。     ああ、もったいない・・・
     余談なのですが、某ゲーム会社から出ているCDシリーズの周瑜役の声優さん、好きな方なのでなお良しですv     でもあのCD、ベースが演義だから扱いがひどいのよね。シーン的にはおもしろいんだけどねぇ・・・吐血の連続(爆)



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